日米協会の歩み
創立から太平洋戦争まで
第一次世界大戦がはじまった頃から、中国大陸における日米両国の利権問題やアメリカ国内での排日運動の動きなど、日米間には緊張した空気が流れていました。そうした中で、明治の頃にアメリカ留学の経験のある人たち、両国間の友好関係を強く望む有識者たち、さらには東京在住の知日派のアメリカ人たちの間で民間レベルでの日米交流団体を立ち上げようという動きが起こりました。
1917年(大正6年)の4月、日米両国人が互いに親しく交流し、相互理解を促進することを誓って日米協会は産声をあげました。初代会長にはハーバード大学を卒業、大日本帝国憲法の起草にも関わった金子堅太郎、名誉会長には時のアメリカ大使ローランド・モーリスが就任、名誉副会長には徳川家達、渋沢栄一、高橋是清、高嶺譲吉など、執行委員には新渡戸稲造、団琢磨、井上準之助など時の政財界や学界を代表する人達が名を連ねました。


(中央に第2代会長徳川家達、右端に第3代会長樺山愛輔)
以来、日本が太平洋戦争に突入するまで協会は日米友好の促進という創立者たちの遺志を受け継ぎ、アメリカから来日する要人たちの講演会開催、英文広報誌の発刊、スポーツ、文化、教育交流など活発な活動を展開してきました。
例えば、新しく就任する米国駐日大使の就任歓迎午餐会は必ず協会が主催し、関東大震災直後には、被災しながらも協会はアメリカの「ヘルプ・ジャパン」の呼びかけのもとに、アメリカからの多額の義援金の受取窓口となり、救援物資や医師、看護婦の派遣受け入れに尽力しました。また、初めて大西洋無着陸飛行に成功し世界的な英雄となったリンドバーグが来日した時、滞在中の世話をしたのも日米協会でした。


戦後の復興への道
戦時中は当局の要請で協会の活動は停止されましたが、終戦の翌年には占領下にあったとはいえはやくも事務局は再開されたのです。戦後の混乱期から経済復興を成し遂げるまでの数十年間、日本には日米協会以外にアメリカの要人や賓客を受け入れ英語で講演会を主催できる団体や組織は少なく、協会での講演会がアメリカの対日政策を発表する場となることも度々ありました。来日したアメリカの副大統領ニクソンが日米協会の午餐会で行った日本に再軍備を求めた講演は大きな話題となりました。
戦前から引き継いできた教育・文化交流の分野でも協会の果たした役割は多々あり、日本文化をこよなく愛したロックフェラー3世の強い要望で、戦後まもなくニューヨークの近代美術館の庭に造られた「松風荘」は、日本の伝統的建築技法を駆使した書院作りで、当時のアメリカ人に大きな感銘を与えました。このプロジェクトは、日米協会が官界、財界に呼びかけ多額の寄付金を集めて実現しました。


ロックフェラー3世夫妻
新たな発展へ向けて
日本が戦後の復興を成し遂げ、経済大国としての地位をゆるぎないものとすると、国として国民として積極的な国際貢献や国際交流が求められるようになりました。国内には協会以外にも同じような使命を持つ民間交流団体が数多く誕生すると、戦前、戦後を通じて日米民間交流の中心的な役割を果たしてきた日米協会の存在意義は変容し、新たな路線を模索することが求められるようになりました。それまで日本各地で独自に活動を行っていた地方の日米協会は、全国日米協会連合会として組織化され、東京の日米協会に事務局が置かれ、各地の日米協会との多彩な交流プログラムが企画されました。また、アメリカ国内の日米協会とも全米日米協会連合を通して交流の輪を拡げていきました。
今まで少数派であった若者、女性、米国人などの会員を増やす努力を続け、活動内容も協会単独ではなく他の団体との共催で交流プログラムが多数開催されるようになりました。
日米協会は2012年5月1日に一般社団法人として新定款を採用しました。2017年の4月13日には創立100周年を迎えました。協会はつぎの100年への出発を機に「100年基金」を設立しました。この基金の趣旨は、次世代を担う日米両国の若者たちの交流が深まることを願い、教育、文化、人物交流などを通して知的水準の高い活動を継続して行く事です。
これからも協会は、創立時の協会の理念を受け継ぎながら、世界の平和と繁栄を願い、日米両国の歴史・文化・国民性を尊重しながら相互の理解と友好親善を促進することを目指します。


来日した保健福祉省のフェロー

追悼・お見舞の会

札幌・北海道大会 ワークショップ風景


日米協会の歴史クイズを楽しむ

ションを帝国ホテルで開催

安倍総理夫妻他600名が参加

て第1回アメリカボウル大会を開催。名誉
総裁に高円宮妃殿下をお迎えした